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          2. 貴重書で綴るシルクロード

            シルクロードの文化遺産の数々へ、貴重書に残された図像や写真と共に、ご案内いたします。

            西から東へ伝わった仏教文化:キジル石窟と鳩摩羅什

            ペルシアやインドの影響が色濃く残る石窟

            1906年と1913年にキジル石窟を調査した、ドイツ探検隊のアルベルト・フォン・ル・コックが驚嘆したのは、キジル石窟の壁画を彩る群青色の美しさだった。

            「ベンベヌート・チェルリーニ[a]の時代に、イタリアの画家が好んで用いた、金の目方の二倍に値したという、あの名高い鮮やかなウルトラマリンを惜しげもなく使っている」[b]

            彼が著書で称賛したウルトラマリン、すなわち天空を思わせる深い群青色を生み出しているのは、アフガニスタンでしか原石が採れないという貴重な鉱物、ラピスラズリ(lapis lazuli)である。ラテン語の石を意味するラピスと、アラビア語の天空・青を意味するラズリに由来するラピスラズリは、西方に位置する現在のアフガニスタンからはるばる運ばれてきたものだった。いつの時代も高価だったラピスラズリ。それがふんだんに使われていたことにル・コックは驚いたのだった。

            (1)

            もう一つル・コックを驚かせたのは、キジル石窟に「東アジア(中国)の影響がいささかも見られない」[b]ことだった。地理的には中国に近い位置にあるにもかかわらず、そこの仏教美術には中国的要素が認められず、むしろインドやペルシア(イラン)の影響が顕著だったのである。例えば、ササン朝ペルシア(226~651)の影響が明瞭なフリーズ壁画(1)は、もと石窟内の台座の左右を廻っていた帯状装飾で、真珠形の円形装飾の中にササン風の鴨が一羽ずつ向かい合い、宝石入りのネックレスをついばんでいる文様が見える。キジル石窟の仏教美術には後期古代様式を模したインド・ペルシア風のものが多く、ル・コックはこれらを「もっとも興味があり、芸術的に完璧な絵」[b]と評した。

            ササン朝ペルシアとは、イラン高原やメソポタミアを支配し、盛期にはアフガニスタンにも進出したという、イラン系の大国家である。アフガニスタンのラピスラズリといい、ペルシア風の美術様式といい、キジル石窟は遠くのペルシアやインドなど西方の影響が強いという、「東アジアらしくない」意外な遺跡だった。

            キジル石窟の様式と構造

            (2) (3)

            キジル石窟とは、西域北道の庫車(クチャ)(2)の西67キロのムザルト河北岸の懸崖に穿たれた石窟(3)である。これがいつ作られたのかは、創建に関わる文献史料や紀年銘が未発見であるため定説がなく、3世紀末とする説から5世紀末とする説まで幅がある。しかし石窟が放棄された時期については、この地域に唐の勢力が及んだのち、8世紀初めとみる説で一致している。

            (4) (5)

            ではキジル石窟の壁画はいつ描かれたのか、これも実はよくわかっていない。ただし、壁画の様式としては少なくとも二種類の様式がある、という見方がドイツ探検隊によって提案され、それが今日でも定説として受け入れられている。まず第一様式(第一期)の壁画(4)とは、暖色系の彩色を特徴とし、描線は概して丁寧で、立体感をあらわす濃淡のつけ方も穏やかなもの。それに対して、第二様式(第二期)の壁画(5)とは、ラピスラズリが加わった寒色系の彩色で、立体感をあらわすために肉身部に施される濃淡の差が大きいもの。後で示すように、キジル石窟には第二様式に属する壁画が多い。

            (6)

            次に石窟の構造を見てみよう。主な構造には中心柱窟・方形窟・僧房窟の三種があるが、中でも特徴的なのは中心柱窟(6)である。これは主室中心柱回廊の三部分からなり、壁面構成はほぼ一定している。

            (7) (8)

            この構造は、以下のような礼拝プログラムにもとづく、一種の舞台装置だ。窟内に立ち入った者は、まず主室において釈迦の前世や在世時の所行に思いをめぐらしながら、中心柱の本尊釈迦仏を拝する。ついで中心柱の周囲に穿たれた回廊を右まわりにまわって中心柱を礼拝し、後廊において釈迦の涅槃を目にする。そこで無仏の世に生きる自らを思いながら回廊を出ると、主室入口上部に描かれた未来仏たる弥勒を観るというものだ。

            (9) (10) (11)

            【1. 主室】 主室の側面には、釈迦の前世物語を描いた本生図(ほんじょうず)(7)や、釈迦の所行をあらわす仏伝図(壁画(8))、釈迦成道後の説法教化の因縁をあらわす説法図(因縁仏伝図)(9)が多数配される。主室はヴォールト天井になっており、そこには菱形の区画内に本生図や説法図を描いた菱形区画本生図(10)菱形区画説法図(11)などが配され、キジル石窟を特徴づけるものとなっている。

            (12) (13)

            【2. 中心柱】 中心柱の正壁には、龕を設けて坐仏を安置し、正壁一面に塑像で山岳をあらわすものが一般的で、なかには正壁に大型の立像を安置していた痕跡が残るものもあるが、それらはいずれも早くに失われて原形をうかがうことができない。中心柱の左右および後部は天井の低い回廊となっており、その壁面には供養者図(12)や僧侶図、ストゥーパ図、涅槃関係の図などが描かれる。

            (14) (15)

            【3. 回廊】 回廊の奥にあたる後廊後壁には、釈迦涅槃の姿が涅槃図(壁画)(13))あるいは涅槃像(塑像)であらわされる。背景の樹葉文や表情が印象的な迦葉図(14)も、もとは後廊後壁に描かれていた涅槃図の一部で、釈迦の臨終に立ち会えず遅れてやってきた摩訶迦葉(まかかしょう)をあらわしている。また、主室の入口上部の半円形壁面には、弥勒菩薩の兜率天説法図(グリュンヴェーデルによる描き起こし図(15))が描かれる。

            ドイツ探検隊最大の収穫となったキジル石窟

            (16)

            キジル石窟を本格的に調査したル・コックをはじめとするドイツ探検隊は、このような石窟の壁画や構造を、文字ばかりではなく、窟形に関する各種測量、写真撮影、窟内の状況記録、壁画の彩色模写と線描による引き写しなどの形で記録していった。とくにグリュンヴェーデルによる線描図(16)は、壁画のうえに直接薄紙をあてて写しとったものであることから資料的価値が高く、グリュンヴェーデルやヴァルトシュミットによる詳細な研究のための貴重な資料となった。

            ル・コックらは、キジル石窟において、壁画の切り取りも行っている。その手順は、まず切り取る壁画の「周囲を鋭いナイフで、切り込みがまっすぐに表面層を貫くように注意しながら、荷造り箱に合うような寸法で切り取」[b]り、その際、「顔、その他大切な部分を切り込まないよう、曲線であるいは鋭角に境界線を切り取る」[b]よう配慮する。ついで「壁画面に小鋸を用いる余地をつくるため、ツルハシをもって穴をあけ」[b]、表面層の状態が悪い場合は、フェルトをかぶせた板を画面にしっかり当てたうえで画面を切り取る、というものであった。

            (17)

            このようにしてドイツ隊が持ち帰った壁画(17)が、いくつもの小部分に切り分けられているのは、こうした切り取り作業によるものである。こうした結果、キジル石窟の壁面には、おびただしい数の切り取り痕や、切り込み線のみで放棄された痕が、生々しく残ることとなった。

            (18) (19)

            こうして切り取られた壁画は、彫刻(18)板絵(19)、文書類とともにドイツに運ばれ、ドイツ隊にとっては以前のどの発掘にもはるかに勝る、輝かしい収穫となった。その成果は、『中央アジアの仏教古代後期』全7巻[c]などの報告書にまとめられ、キジル石窟の研究に大きく貢献することとなった。

            大乗仏教を東アジアに伝えた鳩摩羅什

            キジル石窟が属する現在の庫車(クチャ)・拝城一帯は、西域北道において歴史上もっとも仏教が栄えた、かつての亀茲(きじ)の地にあたる。当時の亀茲は仏教寺院や僧侶がひしめきあう仏教王国であり、4世紀中ごろの『出三蔵記集』には「時に亀茲の僧衆一万余人」、「寺甚だ多く、修飾至麗たり。王宮は立仏の形像を彫鏤し、寺と異なるはなし」などと記録されている。また同書には、タリム盆地諸国の王侯の婦女が集まる尼寺が亀茲に三箇所あったとの記述があることから、亀茲は西域仏教における一大中心地として機能していたと考えられる。

            亀茲にいつごろ仏教が伝わったのかは明らかでないが、中国側の史料によれば、すでに3世紀末から4世紀初めにかけて、相当数の亀茲出身の僧侶が、中国で仏典翻訳に従事していたようだ。そこに登場したのが、4世紀前半~5世紀前半に活躍し、亀茲を代表する人物とも称えられている鳩摩羅什(くまらじゅう、Kumārajīva、生没年不詳)である。

            彼は亀茲国王女を母として生まれ、その父はインド人であった。幼くして母とともに出家し、インドに留学して小乗仏教を修めたが、インド北西の罽賓(カシミールあるいはガンダーラ)において大乗仏教に出会い、亀茲に戻った後はひたすら大乗仏教の宣揚に努め、大いに尊敬を集めた。その名声は亀茲国のみにとどまらず、広く西域諸国に鳴り響いていた。『高僧伝』巻二には、「西域の諸国、みな什の神俊に伏す。毎年の講説に諸王みな座側に長跪し、什をして践(ふ)みて登らしむ。その重んぜらるること此のごとし」と記されている。その名声を伝え聞いた中国からの強い要請を受け、鳩摩羅什はやがて長安で訳経に従事することになった。

            鳩摩羅什が長安にやってくる以前にも、原語を漢訳した仏典は中国に存在した。しかしそれらは、中国固有の老荘思想の観念や用語に仏典をただ当てはめたもの。やがて中国では、このような方法論で仏典を研究することへの反省が広まり、仏教の原語と教義を深く理解した外国の僧侶による訳経が望まれるようになった。そこへ適任者として白羽の矢が立ったのが、鳩摩羅什である。彼はインドへの留学により梵語を身に付けており、大乗仏教にも精通していた。

            彼は三千余人ともいわれる弟子を育てながら、『阿弥陀経』『大品般若経』『維摩経』『大智度論』などの大乗経典をつぎつぎと漢訳していった。とくに『妙法蓮華経』は名訳とされ、数ある『法華経』の漢訳のなかでも圧倒的に使われるようになった。鳩摩羅什の優れた訳経のおかげで大乗仏教は東アジアに広まり、それはやがて遥か東の日本にも伝来する。現代の日本でも鳩摩羅什が訳した経典が使われ続けていることからわかるように、彼が本格的に大乗仏教を東方に伝えた功績はまことに大きい。中国仏教のみならず、その流れに属する日本の仏教もまた、シルクロードを西から東に伝わった仏教文化と、そこに栄えた仏教王国・亀茲に恩恵を受けているのである。

            [a] ベンベヌート・チェルリーニ(Benvenuto Cellini 1500~71)
            ルネサンス期のイタリア・フィレンツェの彫刻家、金工家。代表作には〈フランソワ一世の塩入れ〉(1540~44 ウィーン、美術史美術館所蔵)がある。自身の劇的な人生を綴った『自叙伝』(1728年初版)は、のちにエクトール・ベルリオーズ(Hector Berlioz 1803~69)によって歌曲「ベンベヌート・チェルリーニ」に編曲されたことで名高い。
            [b] 『中央アジア秘宝発掘記』より
            [c] 本サイトでは、そのうちの第1~5巻を収載する。

            さらに詳しく知りたい方へ

            2006年10月05日 更新
            2006年02月13日 改訂
            2005年05月09日 発行
            執筆: 大西 磨希子・北本 朝展

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